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そもそもの始まりは…
ベラとファーリンは1981年3月4日シュパンダウ屋内球技場で ポゴダンスをしているときに知り合った。
ついてないのがそのきっかけ、お互い頭を強くぶつけ合った。 (神の啓示ってやつ?)
ファーリンにそのときのことを振り返ってもらった。
『あれは今まで聞いたことがないようなすごい音がしたよ。
そのあと倒れたベラを支えて ダンスフロアから連れ出さなきゃならなくなったんだよな。』
この衝突があって世界一素晴らしいバンド、エルツテの誕生となったのだろう。

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参考資料 von Mark Rickers




1980年当時インテリアデザイナーの見習い『ベラ・べー』(本名ディルク・フェルゼンハイマー、64年12月14日生まれ)とギムナジウムの生徒『ファーリン・ウアラウプ』(ヤン・フェッター−マルキニアク、63年10月27日生まれ)はベルリンのポゴ−ディスコ『バルハウス・シュパンダウ』で知り合う。一週間後ファーリンはベラのバンド『ゾイレント・グリューン』に加わる。このバンドは1979年に結成し、名前はSF映画『ソイレント・グリーン』(ドイツ版は:『2022年:生き残りたい人々』;死体から生産した食料品の名前『ソイレント・グリューン』の話である)にちなんで名付けられた。




1982年ゾイレント・グリューンは唯一のシングル『ディ・フライシュEP』をリリースし、ベルリンの『SO36』(ディ・トーテンホーゼン前進のグループ!)の『五月へのダンスパーティー』で最後のコンサートを行った後、82年4月30日に解散する。

『フラウ・ズウアビーア』のグループからスカウトされた『ザニー』(ハンス・ルンゲ、64年6月12日生まれ)と一緒にベラ・ベーとファーリンは1982年のうちに『ディ・エルツテ』を結成する。ベラはドラマーに、ファーリンはギターに、そしてザニーはベースにつき、ボーカルをとりわけベラとファーリンが担当。貸し切りの家で初めてのコンサートが開催する。




1983年2月インディペンデント−レーベル『フィールクラング社』でパンクロックのししゅう作品『アイン・フォルラウシュ・イン・ステレオ−20ショイメンデ・シュティムングスヒッツ』が出版される。『ドイチェ・トリンカーユーゲント(DTJ)』、『フラウ・ズウアビーア』、『パンツァークナッカーAG』、『ツァプフハーンヨーデルン』そして『タンゴブリューデルン』のグループと協力して(ザニーならびに現在のトーテン・ホーゼンのメンバー!!!カンピノ、クッデルそしてヴェリと)ディ・エルツテはここに一番最初のトラック『ツム・ベッカー』、『ジトローネンアイス』そして『フォルミルヒ』をリリースする。同じレーベルでエルツテはほんのわずかなうちにEPのシングルで初めて『自分達の』レコード 『ツー・シェーン、ウム・ヴァー・ツー・ザイン』を発売する。




1984年エルツテはベルリン州政府のロックコンテストで優勝し、賞金をミニLP『ウンス・ゲーツ・プリマ』の製作につぎ込む。同じくフィールクラング社でリリースされる。このレコードはそれどころか若者向け雑誌『ブラボ』で好意的に注目されてから、何週間にもわたりインディーズのチャットでトップに立つ。

裁判の決定でドイツ赤十字社は自社の認識シンボル(白地に赤色の十字)を手に入れ、エルツテによる使用が禁止される。そのため最初の『ウンス・ゲーツ・プリマ』のカバーを変えなければならない。音楽の傾向は今日パンク・ロックからポップへとますます広がっている。ただコンサートの場合エルツテはテンポを上げる。

この最初の小さな成功によって大きなレコード会社はこのバンドに気付く、そのため『CBS』(現在の『ソニー・ミュージック』との契約を結ぶ。それはファーストLPレコード『デビル』に至る。




1985年エルツテは『映画スター』になる:映画『リッチー・ギター』でこのトリオは(さあ、なんだろう?)ある若いロックバンドのこの世界に入って最初のトライを演じる。映画が完成した後、アルバム『イム・シャッテン・デア・エルツテ』を発売する。




1986年半ばザニーと衝突が起こる。そうこうするうちにザニーが経営学を勉強し始めていた。ベラとファーリンは彼を責める。彼にとって金を稼ぐことや企業体がバンドの音楽活動より大切なのだ。10000マルクの保証金と共にベラとファーリンは彼を失う。ザニーとの別れた後ファーリンとベラはとりあえず二人組みでアルバム『ディ・エルツテ』をリリースする。

86年10月20日エルツテは『バーレン・ハイノ』のためのチャリティーフェスティバル(約20組別のバンドと一緒に、トーテン・ホーゼンなど)にベルリンの『テンポドロム』でザニーと決別して以来初めて再びライブに登場する。その際エルツテは新しいベース奏者『ジ・インクレデブル・ハーゲン』(ハーゲン・リープリング、61年2月18日生まれ、当時マスメディア学の学生)を紹介する。彼は以前ベルリンのバンド『ニルバナ・デビル』で演奏していた。ハーゲンはベースコンサルタント契約とエルツテの援助という状況で引き受ける。




1987年『青少年に対する危険著作物連邦調査局』と対決する。:『ゲシュビスターリーベ』、
『クラウディアハットネンシェパーフント』そして『シュラーフリ−ト』の歌の歌詞のせいでアルバム『デビル』と『ディ・エルツテ』は禁書目録行きとなる。それゆえこのレコードは成人した者にだけ売られるようになる。 こうされることはエルツテにとってもはや全くあってほしくないので、このアルバムはレコードの売り場の棚に実際ほとんど見なくなる。もしそうだとしても、このレコードは具体的な問い合わせがあった場合には(たいてい案内のカウンターで)入手できる。

この検閲にエルツテは、禁書目録入りしたレコードですでに公になっている何曲かを(とりわけまだいくらか新しいアルバム『ディ・エルツテ』の)古い歌と新しい歌で一緒にまとめて二つの新しいアルバムに割り振るという方法で対応する。:販売制限のされていないアルバム『イスト・ダス・アレス?−13・ヘーエプンクテ・ ミット・デン・エルツテン』にならび、検閲で引っ掛かった作品を盛り込んだミニLPレコード『エルツエ・アップ・18』、それだからどの年齢証明がつくにせよ手に入れられる。エルツテは確かに コンサートでこの検閲で引っ掛かった3曲を歌うことは禁止されているが、演奏することは許されてる。:とくに『ゲシュビスターリーベ』はいつも毎回コンサートで演奏され、さらにファンによってどっちみし歌われる…。

さらなるスキャンダルは87年10月12日、ミュンヘンのテレビ番組 『ライブ・アウス・デム・アラバマ(アラバマから生中継)』で、エルツテはほんの数日前に亡くなったシュレースヴィッヒ・ホルシュタイ州首相の死について批判的な意見を述べる。視聴者の抗議後、バイエルンにラジオ放送局は正式に謝罪をよぎなくされ、(どうやら後に解かれたらしい)エルツテボイコットを布告する。



1988年4月末を手前に新しいアルバム『ダス・イスト・ニヒト・ディ・ガンツェ・ヴァールハイト…(真実はこれだけではない…)』が発売され、次のツアーのスタートの合図出す。ようやくこのツアーの終わりにこれを最後に予定してことが分かった。:1988年7月9日ズィルト島の村、ヴェスターラントの療養センターのホールで暫定的なお別れコンサートが行われる。解散の根拠にエルツテは説明する。将来今よりもっと悪くなってしまうかもしれないことが心配である。それゆえエルツテは今の成功の絶頂で引退したい。のちに(93年)やっとエルツテは、1988年に創造性にトラブルがあったことと彼ら自身むしろ他の音楽活動をしたかったということを、もう一度最初からやり直すには、まだ十分若さを感じていていたからだと補足する。

解散にあたって翌年の88年秋に3枚組みのライブアルバム『ライブ-ナーハ・ウンス・ディ・ジントフルート(ライブ・後は野となれ山となれ)』(LPレコードのチャットで1位に達し、いつもたいてい売り切れてしまっているドイツの三枚組みのアルバムとなる)それと、ビデオ『ディ・ベステ・バンド・デア・ヴェルト(…ウンツヴァ・ライブ!)(世界で最も素晴らしいバンド(それもライブ!))』が発売される。




1989年お別れは引き続き行われる:次に『フィールクラング社』でアルバム『ディ・エルツテ・フリューア/デア・アウスフェアカウフト・ゲート・ヴァイター』が発売する。このレコード会社(83/84年)でのこれまでの全作品とさらに4作品(このうち2つはどうやら新しくレコーディングしたようだ)が含まれている。

その後、『ダス・イスト・ニヒト・ディ・ガンツェ・ヴァールハイト…』から最後のシングル盤が発売する、すなわち『ビッテ、ビッテ』。その際エルツテとしては予期もせず好評なる、なぜならエルツテはそれに付属のビデオ-クリップにドイツのナンバーワンポルノ王、テレザ・オロヴィスキを積極的に参加させているからだ。公式に成人した者にだけ販売されることが許されているビデオ、『ディ・ベステ・バンド・デア・ベルト(…ウンツバァ・ライブ!)U』に他のクリップと多少のライブデータ追加して、 駄作を考察はせずそのまま収録している。

さらにエルツテ関係で存在するのが自由ベルリン放送局の児童雑誌のししゅう作品で『モスキート・ソングス』という名前の『モスキート』を聞くことができる。このししゅう作品に同じような6曲『10代の悲劇』が収集されている。その際に、この時ちょうどB面から有名なった『ガービとウーヴェの歌』とこれまで公表されていない歌(『ガービとウーヴェ愛と平和に』)すべてが話題になる。

『ジ・インクレデブル・ハーゲン』(ハーゲン・リープリング)が フィールクラング社でししゅう作品『ヴィア・ヴァルテン・アウフ・ディ・リンデンシュトラーセ』をプロデュースする。この作品の中にハーゲン自身が作詞しベラとファーリンと共に演奏した歌もある。今日(96年)ハーゲンは『ローリング・ストーン誌』のドイツ語版とベルリン市民雑誌の『アドバイス』の作家と筆者をしている。

同じくハーゲンの前バス奏者、ザニーが突然再び姿を現す。彼と『エミ・エレクトローラ』はソロアルバム『エアステ・ザニー』を 試みる。恐らくまだいくらかそうこうするうちに営利的なエルツテの成功に関与するためだろう。それはどうやら成功しなかったようだ。

ベラ・ベーは『S.U.M.P.』グループを結成する。そこで彼はドラムを他の人に任せてその代わり歌うことに専念する。少ししてこのバンドはミニアルバム『ゲット・ワイス、ゲット・アグリ・、ゲットサンプ』を発売する。その歌の大部分がカバーヴァージョンで成り立っている。




一番最後のエルツテの残りを1990年熱心な客が手に入れる。ししゅう作品『モスキート・ソングスU』で、また以前に公表されていないトラック(『シュレヒテ・ノーテン』)が収録されている。そして『ベラ・ベーとヤン』としてベラとファーリンが新しい歌で『ヴェルナー・バインハート!』サウンドトラックに参加した。

その間にファーリンとベラはそれぞれ自分たちのバンドで試してみる。両バンドとも英語を優先的に使う。ファーリンは『キング・コング』のグループを結成し、そこから次にアルバム『キング・フー?』とその後ツアーシングルとして『コンプレット・マハゼ』EPレコード盤を発売する。ベラのバンドS.U.M.P.は『ディープ・ジョーンズ』に改名しアルバム『!リターン・トゥ・カランバ!』をリリースする。メンバーはS.U.M.P.でもディープ・ジョーンズでも、ちなみに『レインバーズ』のロドリゴ・ゴンザレツがいる。 のちにエルツテでベース奏者になる予定の…




1991年キングコングはアルバム『ジェネラル・セオリー』を、そしてディープ・ジョーンズはミニアルバム『ウエルカム・トゥ・ヘル』をリリースする。




1992年キングコングからアルバム『ライフ・イットセルフ・イズ・スウィート、スウィート、スウィート』が発売される。


ディープ・ジョーンズは10月に1年半かけて推敲したアルバム『アット・2012・A.D.』をリリースする。11月けれどもこのバンドはレコード会社『ソニー・ミュージィック』(前『CBS』)から商業上の成功が現れそうもないので、今後の共同協力を度外視すると言い渡された。新しいアルバムはしたがってプロモーションがつけられなかった。ディープ・ジョーンズはそれからしばらくして失望のなか解散する。



1993年ベラはさしあたり二つのバンド(『クラッシュランド』と『パール・ハーバー』)でドラムを演奏する。この二つのからけれども今までにレコードなどはリリースされていない。

ファーリンはベラにいくつかの新しいデモ曲を演奏して聴かせたことで、エルツテカムバックの説得に成功する。ベース奏者にロッド(リゴ)・ゴンザレツ(68年5月19日チリのヴァルパライソ生まれ)。彼はすでに以前からディープ・ジョーンズでメンバーだった。その直後に『ベステ・バンド・デア・ヴェルト求むレコード会社』の両面広告が専門雑誌『ムジィーク・マルクト』に掲載される。これに『メトロノーム』等が応募する、最終的にこの会社が獲得権認可を手を得る。この会社をエルツテは契約解消の1996年末まで変えない。

10月ようやく新しいアルバム『ディ・ベステ・イン・メンシェンゲシュタルト』が発売される。このアルバムは以前のアルバムよりかなりどぎつく聞こえる。それにもかかわらず今後はかつて以前の時よりも金儲けに成功した。舞台復帰は93年10月29日ビーレフェルトで『PC96』が祝われる。その次のツアー(『プラゲット・ツアー』)は12月まで続き、同様に大成功を収める。




1994年のこの年は最初に再び新しいししゅう作品をもたらした。:『ダス・ベステ・フォン・クルツ・ナーハ・フリューア・ビス・イエツト』でもってたぶんとくに新しい若いファンが『昔の』曲に慣らされるようになっているのだろう。だが昔ながらのファンもいくつか昔の(マックス)シングルのトラックの入った最初のCD発売に購入をそそのかされる…。

大きな反響をうけて93年代のコンサートでエルツテは今や3月から6月の間長時間のツアー(『ツアー・ツアー』)に出かける。ツアーでエルツテはかなりの数の市町村でコンサートを立て続けに行う。(例えば三つのコンサートをハノーファー、ケルンそしてハイルブロンで行ったり、そしてそれどころかハンブルクで5回も演奏している)。こうしているのはもっとも、エルツテ自身大きなホールがやりにくいと感じるために、そういった場所での演奏を放棄していることと、問い合わせは今あるいくつかのコンサートで満したいと思うためである。夏にこのバンドはその上まだいくつかのフェスティバルに積極的に参加するとりわけ94年8月20日ケルンの『ビザー・フェスティバル』では主演者として参加している。


(続く)

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